もうすぐ立秋ですが、連日きびしい猛暑が続いています。
今日は朝から現場測量に出ました。年々夏の暑さが増していて、炎天下での作業は体力と気力勝負です。
さて、前回に続いて、村井設計の成り立ちについてご紹介したいと思います。
今回は”中編”といたしまして、主に社長の生い立ちを書かせて頂きます。
昭和51年、當麻の地に生まれた彼は、幼い頃から事務所を出入りすることは生活の一部でした。沢山の大人と接することで人見知りすることもなく、2歳上の兄と共に多くの仕事関係者に可愛がられて育ちました。
創業当初から玄関は一箇所で、仕事もプライベートも共通で使用していたため、人の出入りが盛んな家でした。
当時は、会長夫人が毎日社員の昼食を作り、何種類ものおかずと炊き立てのご飯を提供するという、まるで社員食堂のように松花堂弁当が振る舞われていました。
社員と家族が揃って食事をするというスタイルが日課であり、まさにアットホームな職場でした。
そんな家庭と仕事の境界線などほぼなかった環境下で育った社長は、知らず知らずのうちに建築設計の業界がとても身近なものとなり、
いつしか、この仕事を自分が継ぐんだという意識が芽生え始めます。大学は迷わず建築学科に進みました。
サークル活動ではバンドを結成し音楽に没頭しました。ゼミでは構造プログラムを研究し、教授や同級生と共に熱く過ごしました。
卒業後は、てっきり家業を継ぐものだと思っていましたが、会長のすすめで某建設会社に就職することになります。
険しい峠を越えなければならない片道1時間半の通勤が始まりました。幼い頃から見てきた、主に屋内で座って行う設計の仕事ではありません。屋外での業務が中心の現場監督という仕事でした。
山間部の現場が大半だったため、冬場は豪雪地帯となり、チェーンを巻いて夜明け前に出勤するという日々がざらでした。
出勤直後は先ず、現場の仮設トイレの清掃から仕事が始まります。とてもお伝え出来ない壮絶な内容で、当時の過酷な思い出が脳裏に今でも鮮明に焼き付いています。
ベテランの職人さんに怒鳴られるのは日常茶飯事で、現場で泊まり込みで仕事に打ち込んだ日々もありました。帰宅途中の峠道で猪の群れに遭遇し、急ハンドルを切ったことでガードレールに激突したこともありました。
様々なことを経験させて頂いた5年間であり、何より社会人として得たものは計り知れません。当時勤めた会社や、導いてくれた会長には深く感謝しています。
退職し、家業を継ぐことに至った経緯は、次回にご紹介させて頂きたいと思います。